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研究業界の選択と集中という愚策と歪んだ実態について

ちらの考え方

こんにちは。ちらです。

今日は日本の学術業界に思うことについて記事を書きます。

テーマは、研究業界の選択と集中という愚策と歪んだ実態についてです。

いつものビジネス系の記事を目的にしている方はあまり楽しめないかも^^;

もしよければ見てやってください。

 

ちらは現在、ビジネスと研究の二足の草鞋を履く複業大学院生です(‘ω’)

そんなちら、日本の選択と集中、科研費型プロジェクト研究推進主義に疑義を感じています。

この記事では学会や他分野の院生など、観測範囲の現象も例に出します。

業界間の差や違いもあるでしょうが、

自分の経験から思う最近の日本や学術業界の方向性についての意見をつらつらと記載します。

まず、”選択と集中”とは何でしょうか?

 

選択と集中? 成果が出る研究や期待値が高い研究にお金を集中投資したい

企業などが売り上げを上げたり、成果を大きくしていくときには、

成果が出やすいもの、出ているものにどんどんお金を投資していくのが常套手段です。

これがいわゆる選択と集中の基になっています。

全体の売り上げの8割は2割の事業から生まれるというパレートの法則などからも、

選択と集中が売り上げ増加に貢献するのは概ね正しそうですね(‘ω’)ノ

ですが、投資の世界では、「卵は一つのかごに盛るな」という格言もあります。

これは一つのかごに卵を全部入れてるとかごを落としたら全部の卵を失うからです。

ビジネスでも一つしか収入源がないと・・・怖いですよね(;’∀’)

生命体も、生殖行為などを通じて、より多様な形で種の存続を狙います。

多様性を残すことを放棄した種は時と共に滅びゆく定めなのです。

 

では、研究業界でも同じ方向性で舵取りをすればいいのでしょうか?

ビジネスなどでは”売り上げ”という明確な最大化すべきパラメータが存在しています。

売り上げを最大化するために企業は施策を行います。

ですが、研究業界の場合、最大化させたいのはなんでしょうか?

研究から発生するお金??

未来における新しい技術開発?

文化的発展?

それとも論文の数??

選択と集中をする目的がそもそも不明瞭ですよね。

役に立つ研究を増やす?

国際的な研究を推進?

抽象的で全くお話しになっていません(‘ω’)ノ

ちらの結論から書くと、

研究に関しては、

選択と集中を正しく行うことはそもそも不可能です。

なぜなら、研究により生まれ出てくる”価値”は

後の時代になって初めて明らかになることも多いからです。

そして、その”価値”は時代と共に変遷し、一定の姿を取ることすらできていません。

 

例えば、アインシュタインの相対論などは

最初から支持を得てガンガンお金を投資してもらったものではありません。

バタフライ効果などで有名なローレンツの論文などはずっと相手にされませんでした。

ですが、今や彼らの研究の偉大さは否定できないものとなっています。

研究の価値を認識するのは

その当時の人類だけでなく、未来の人類でもあります。

 

研究ではないですが、

暗号通貨がここまで認知されることを予想できた人はどれだけいたでしょうか?

最初はポツンと書かれたサトシナカモトの論文から全てが始まっています。

そこからどんどん暗号通貨は発展していき、

今では盛んな投機・投資対象として利用されています。

こうした発展をサトシナカモトの論文が出る前に予想したり、

もしくは論文が出てすぐに重要性を国が理解することができたでしょうか?

できていませんよね。

選択と集中というお題目で

研究や文明の発展が本当になされると思っているなら、

恐らくそれはあなたの思い違いです。

真の発展や飛躍というのは予期できないところから現れます。

選択と集中というビジネス的戦略を研究に持ち込むのは賢い選択とは言えなさそうですね。

また、一体だれが、どうやって選択と集中に関して正当な判断を下せるのでしょうか?

 

資金集中の選択は誰が正しく行えるのか?個々の研究を理解しているわけでもないのに・・・

現在、国や大御所の方々が選択と集中により投資対象を絞り、

日本の研究成果を増加させようとしているわけですが、

一体だれが何を以て選択しているのでしょうか?

これだけ細分化された研究分野において、

公平性を欠かずに資金の集中などといった行為が可能でしょうか?

 

知人、過去のプロジェクトでの関係、自分の分野の大御所、

またその大御所の弟子などのいわゆるコネ、

人間関係、権力構図などが効いているのではないでしょうか?

 

これは大型の科研費やプロジェクトに限らず、学振レベルでも同様です。

受かった先輩から代々テンプレが引き継がれ、

指導教員が大量に手直しをしてくれ、

研究室一丸となって申請書を分業しているところもあります。

それに対し、学振のノウハウなどが存在しない孤軍奮闘型研究室では

どれだけ研究ができてもいわゆる”学振に通すための書き方”を知らず途方に暮れる人もいます。

実際に同じ分野に所属している2ケース:
1.研究室の知名度そこそこ。
M2で論文を1本所有する研究能力の高い男子学生が学振に落ちる。

2.研究室の知名度は大。
Natureなどに投稿し、多数受賞の指導教員の研究室。
M2で論文なしの女子学生が学振に通る。

この二名は同じ分野、細目、大学です。

さて、本当に公平な採点が為されているのか、疑問が残ります。

ちらはこういった学振レベルの研究者として生きるスタート地点ですら、

バイアスのかかった判断を取り除ききれていないと思います。

ひどいところは教員が学振を全部書いてあげたり、

箔を付けるために過去の修士の学生のテーマを卒研生に引き継がせる。

そのテーマで早いうちに学会発表をさせ、

実績作りさせる研究室もあります(とある生物系研究室で観測されている)。

科研費、プロジェクトなどは公募もありますが、

学会で最初から話が決まっているものもあり、いわゆる出来レースと化していることも。

これはポスト獲得においても同様です。

 

実力主義とは何か? 過去の結果があるから次の科研費やプロジェクトを任せられる?

選択と集中をお題目とする際に、実力勝負での競争を進めていくなどと聞くことがありますが、

”実力”とは何なのでしょうか?

論文数?

科研費獲得金額?

賞の数?

学振に通ったかどうか?

実績を元に資金を得る→その資金を取ったことを実績にする→その資金をとったことを・・・

といったように、過去に○○できたからを基準にすると、

こうした業績集めによりレールを構築する方が有利。

獲得した業績や賞などでマウンティングを行う研究業界になっていきます。

いや、もうなっていますね。

このやり方はビジネスの世界の必勝法みたいなものですが、

研究に持ち込むのは危険だと思います。

そもそも、研究はビジネスではないので。

 

研究成果だけで判断されて得られたものならまだマシですが、実態は異なると思います。

研究の内容を同じ学会の中でも

理解できる人が少数のテーマでは日が当たりにくく、そもそも評価されません。

結果、評価、実績は”多数派の意見を味方に付けること”により為されがちです。

例えば、ポスター発表の賞が投票制であるなどがこれに当てはまりますね。

そもそもポスターを見に来てくれる数が少ないニッチなテーマの学生などは最初から競争権利を失います。

これも一例ではありますが、美人女子大学院生のポスターに

人が群がる残念な現象を観測したことのある人もいるかもしれませんね。

 

スタート地点で”実績と結果”が出やすいテーマを選び、

研究を進めていくのが現状有効な処世術となっています

ですが、こういう生き方をする人はそもそも研究者なのでしょうか?

ちらはどちらかと言うと、ビジネスマンとしての生き方になるのではと思います。

それなら素直にビジネスをやればいいのではないかなとちらは思います(‘ω’)ノ

研究をわざわざビジネス化しなくてもいいと思うんですよね。

 

研究は”実績、評価の最大化”のためにあるのではなく、

何らかの現象(分野により現象の意味合いは異なる)の

理解であったり、予測が目的です。

今流行りの現象を選べば票は集めやすく、最初に票を集めれば、結果を得られ、

その結果が後々の資金集めに効き、研究者人生を左右する。

これを当たり前にしている今の研究業界は狂っているとすらちらは思います。

 

研究の重要性を他人に説明できない研究者、大学の講義や事務仕事に追われる先生は実力不足?


~~「基礎研究に研究資金を投入しない政策は愚行だ。」

という人は研究の重要性を他人に説明できない研究者である。

大学の講義や事務仕事に追われて申請書を書けてないだけ。~~

という言い分を述べる先生が一定数アカデミック業界には存在しているようです。

 

まず、研究の重要性を他人に説明できないという点ですが、

他人に説明できないというより、

そもそも一般的に理解しづらい研究なのではないでしょうか。

例えば、
・エネルギー問題を解決するため、
○○の生物からとれる××成分を使って燃料の研究をしています。

・非線形方程式を解くために役立つ××方程式の
解の適用範囲を理解するために△△モデルで研究しています。

というような差異です。

前者は重要性を誰もが最初から認識しており、そもそも研究する理由に疑義を持たれない。

後者はまず何の役に立つんですか?、

そもそもその数式なんですか?、その研究やる必要ありますか?からスタート。

そもそもの前提知識、興味そして問題意識が異なる時点で

説明や理解させることにおける有利不利の圧倒的差が存在します。

 

何か産業的に役に立つための研究でなく、

対象の理解を目的としている場合などは

その意義を相手に感じさせるところからスタートします。

そして、その説明理由への興味がない場合、

説明を聞いた側はよくわからないorその研究いらないのでは?

という反応を示されて終わってしまうことも・・・

興味を依り代にした評価を行う場合、

多数派の人間にウケることを

やる方が有利なのは当たり前ですよね?

 

このような違いが生じたときに、プレゼン能力に差がなければ、

どちらが人に説明しやすく、また、同意を多数から得られるかは明らかです。

最近だと、とある手法の正式名称を

”人工知能”に変えただけで科研費に通ったという事実なら残念すぎる話もあります。

 

また、大学の講義、事務や雑用仕事に関してはどうでしょうか?

まず、国公立と私立では教員にかかる負担の大きさが全く異なります。

私立大では多いところでは1クラスの生徒数が100人を超えますが、

国立ではせいぜい3~40名程度でしょう。

そのようなクラスを3つや4つ持てば

単純なレポートチェックなどだけでも10倍近くの労力差になります。

なので、国立大と私立大の先生について、

同じ土俵で雑用や事務仕事に関して語っても前提が違い過ぎて全くお話しになりません。

大学にもよるでしょうが、

一般的には教員会議などで決定されるようです(学生なのでちらもここは聞いた話)。

このときに、重たい講義を多数やらされる教員や全然講義を持たない教員がいたりします。

それは教育能力の差であったり、会議での発言権が強いかどうかなどにも関係します。

人がいい先生は断らずにどんどん雑用も引き受けてしまいがちです。

 

ちらの学部時代の先生は教育熱心で、

学部1年生や2年生のときから研究室に出入りすることを許してくれる方でした。

そこで、希望者には研究体験を行えるようにし、後進の教育にも力を入れていました。

まだ研究室に入っているわけでもないのに、質問に行くと毎回丁寧に答えてくれます。

テストの採点なども単なる○×ではなく、全回答に対してコメントをしておられました。

では、研究業績に関してはどうでしょうか?

論文数はそこそこ。年1、2本とかでした。

卒研生に与えるテーマは卒研生の意思を尊重。

先生自身のテーマとは完全に別物を行うことになっています(テーマを1から組み立てていくことも教育)。

 

それに対し、同じ世代の先生で論文を年5~8本書くが、

学生の面倒は見ず、質問に行ってもあまり相手にしてくれない先生もいます。

こちらの先生は科研費もとりますし、

卒研生には自分の科研費の研究の手伝いをテーマにさせたりします。

やることも決まっているし、作業するだけで卒業できるから毎年やる気のない学生に大人気。

学生の人気が高い研究室なので教授会での評価は高く付いたりするとか。

自分の研究に集中してるからできるだけ余計なことに時間を使いたくないということですね。

さて、教育にかける時間、

事務仕事や雑務に時間をかけたことを評価してくれる機関はあるでしょうか?

現状、国の選択と集中のプランの中にこうした教育活動への貢献などは含まれていないと思います。

 

まとめ

ちらの私見ですが、

研究、教育、政治、ビジネスは

全て本質的に異なる側面を持つと考えています。

が、今の研究業界はこれらをごちゃまぜにして、

その中で選択と集中と言って評価を行っています。

実力とは何か?

結果とは何か?

選択が正しいといえる人間がいるのか?

教育に力を入れている先生、

研究に力を入れている先生、

政治力や主導力で国からお金を取ってくる先生

どれも必要だと思います。

 

お金を取ってきた先生だけが評価されるべきなのでしょうか?

良い雑誌に論文を出しまくった人だけが高く評価されるべきでしょうか?

ちらは違うと思います。

 

正しい評価など何者にもできず、

できると考えているならそれは奢り。

選択と集中など研究の世界でやるのは多様性を失わせるだけの愚策だとちらは思います。

未来における正しい選択、成功のための一手を打ち続けられるほど人間は賢くないのです。

であれば、多様性と可能性を残すべく、薄く広くばらまく方がいいでしょう(‘ω’)ノ

投資の世界で言う、「卵はひとつのかごに盛るな」です!

ちらは今の評価制度や選択と集中の流れを無視して研究する選択肢を取るつもりです。

そのためにも、とりあえず自分が自由に動ける環境を構築することは重要です。

そういった生き方もまた研究の多様性を増加させることにつながると信じています。

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